第一章『邂逅』―Heart Break― |
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……。 ……とても。 ……とても懐かしい、――夢を見た。 「ほら、光那。パパとママから離れちゃ駄目よ」 「うん! ちゃんとてーにぎってるよぼく!」 休日の人ごみでごった返す空港のロビー。チケットを受け取った父親が押し出されるように列から戻ってくると、母親が光那の手を取って歩きだした。 光那は目をしぱたたかせる。辺りは自分の背丈ほどもある旅行バッグの群れ。気を付けなければ、ぶつかってしまいそう。 いや、実際の所、既に何度かぶつかってもいた。 しかし、それすらも忘れてしまうほどに、光那の目は、ただ爛々と輝きに満ちていた。 初めて訪れた空港の景色は、本当に何もかもが新鮮だったからだ。 手を伸ばしても届く気配すら見せない天井。突き抜けるように広がる建物の広さ。不意に聞こえる耳をつんざくような轟音。 それらは全て、見たこともなければ聞いたこともない。全てが興味に映る子供にとって、それは胸を高鳴らせる以外の何物でもなかった。 光那が、時折自分を見る母親へと言葉を投げかける。 「ママ、ひとがたくさん!」 母親は、その言葉に柔らかな笑みを持って返した。 「そうね。いっぱいいるね。だから迷子にならないように」 「ママ、ひこーき! ひこーきだ!」 「そうだね、大きいねー」 光那は、母親の言葉を全て聞いていない。 耳に入る前に興味を惹かれるものがありすぎて、言葉に集中出来ないのだ。 だが、しかし母親はその様子をとても幸せそうに眺めていた。 そして、先を歩く父親もそのやり取りを聞いて、時折微笑みを浮かべながら光那を見ていた。 二人にとって、この子供は何物にも変え難い宝物なのだから。 ――やがて、親子は保安検査の場所に辿りつく。 父親はすると一旦荷物を置き、光那の所へと近づいた。 ぽかんとした表情で父親を見る光那に、父親はしゃがんでから頭を撫でる。 「光那。パパ、ちょっとお仕事行ってくるからな。良い子にしてるんだぞ」 「うん。パパ、どれくらいで帰ってくるの?」 「すぐだよ。なぁママ」 「そうよ。すぐに――……!? ……ちょっと、幸秀」 「ん? ……――!」 「?」 何事か、ふと両親の顔つきが変わった。 光那も怪訝そうな顔を浮かべ、二人の顔を交互に見返す。 そこに、である。 「久しぶりだな、幸秀。それに、栞」 声は、やけにしわがれていた。長い銀髪に、皺だらけの顔。そして、ただ全てを見透かすような三白眼。特に、その右目は例えようのない不死感に満ちて――。 知らないおじさんだ。そう思いながらも、光那はどこか覚えのない畏怖感に囚われていた。 場に、緊張が生まれる。 知らず、拳を握り締めていることに光那は気付いた。 ――夢は、そこで途切れる。 その時、一九九六年、八月。 我道光那、四歳と九ヶ月の夏のことであった。 □□□ 高校生になれば、何かが変わると思っていた時期がある。 高校生になれば、何かが始まると思っていた時期がある。 それは、誰にでもそうで。期待しない人は多分にいないだろう。 でも、実際にそんなことは中々起きやしなくて。 でも、何かを期待せずにもいられなかったりする。 だけどやっぱり、起こる気配はなかったりする。 高校生は、期待と不安に満ちた日々なのだ。そう、――光那は思う。 ただうつろうように流れるように高校生という生活を送っているだけの日々。だけどそこにも、何かしらの意味はあるのだと願いたい。 こんな、うつろうばかりの日々でもだ。 そう、うつようような日々でも。虚ろうような、日々、でも。 「……ーい。おーい我道、起きろー。おーい」 「ぷっ……くすくす」 教師の声に、教室のそこかしこから失笑が漏れている。 その対象とは、他ならぬ夢世界に意識を移している我道光那だ。 彼は今、与えられた机に突っ伏して居眠りをこいていた。短く切り揃えられた、だけど僅かにヘアワックスで弄った気も見える黒髪はふわりと窓から入る風に靡いている。スヤスヤと寝息を立てる成長期の身体は、呼吸の度に背中が上下している。組まれた腕の間から見える顔は、平和そうな顔を覗かせていた。 「おい、誰か。そいつを起こしてやってくれ」 一度溜息をつき、教師が告げる。 仕方なく、といった感じで後ろの席の男子が手を伸ばした。 だが、その前に。 ――プス、と。 目覚めの刺客は既に、この教室内へと潜り込んでいたのであった。 擬音に例えるなら、それはそんな音だっただろう。 「い、痛ったぁ!」 「……」 瞬間、光那ががばっと起きる。 血は出てやしないかと、何度も痛みが残る額を押さえた。何が起こったのかと辺りを見ると、むしろ教室中の視線が自分に集められていることに気付く。 え? 僕? と、光那は節操なく辺りを見渡す。 ――と。 「何寝てるんだ、間抜け」 ふと下に、声を覚えた。 「う……この声は」 嫌な予感が襲う。 光那は、額の手はそのままに声の方を向いた。 するとそこに、一人の少女が感情のない顔で手に縫い針を抱きながら光那を見据えていた。小柄な身体にボリュームのある髪はやけにアンバランスで、だがそれがこの少女を際ださせている。 教師がその少女を見て、再び溜息をついた。 「おい、聖矢。お前いつの間に入ってきてたんだ。今授業中だろ」 少女は一抹の悪びれもせず、教師に向かう。 「ご心配なく。わたしはフリーダムですから」 「いや、そういうことじゃあなくてだな」 少女の声には、およそ抑揚というものがなかった。それは、例えるなら止まった心臓を現す心電図のようなものだ。 よって、少女の話す言葉には感情というものが見えない。 それがわかるのはきっと両親と、そう、後この光那くらいのものだろう。 「い、いたた。でもまぁ、心配してくれてありがとうね、姫」 「うむ」 姫、と呼ばれた少女は小さく頷いた。ちなみに姫というのはあだ名ではない。聖矢姫というのが彼女の本名だ。聖矢は、ひじりやと読む。 心配してたんだ、という声がちらほら聞こえるが、姫はそれを無視した。 「寝とらんで勉強せい」 「う、うん。ごめんね」 光那は笑顔を作り、小さく頭を下げる。 「ふむ」という声が聞こえてから、光那は頭を上げた。 「にしても姫、何でここにいるの?」 ここは、2−C。そう、二年の教室だ。一年である姫がいるのは、どう考えてもおかしい。 だが、姫はそれにも全く動じることはない。 何を今更、という視線を光那にくれながら、姫はさらりと言いのける。 「言ったろう。わたしはフリーダムだと」 それが答えだ、と姫の言葉には揺ぎ無い自信が満ちていた。 教師が、再び溜息をつく。 「だから、そういうことじゃあなくてだな……」 □□□ ここ来光学園は昼食になると弁当組と学食組の二つに分かれる。 まぁ弁当と言っても手作りのものに限らず、購買で買ったものも含まれるのだが。 だが、大体ここの生徒達は大半が学食に赴く。混雑するのも並ぶのも承知の上でだ。 それが何故かと言ったら、単純にここの学食は味の評判がいいのである。 グルメとはいかないまでも舌が肥えている昨今の学生にとって、正に適度な味付けなのだ。 薄くはない。しかし、濃すぎもしない。そこそこに濃い、というこの“そこそこ”が受けているのである。 そしてこの我道光那も、多分に漏れず学食を愛用する生徒の一人であった。 となりにはクラスメイトである綾辻快斗と上原裕也の姿も見える。 三人は食券を手に、麺類とご飯物、それぞれの列に並んでいた。 しかし列は隣同士で、三人の会話が続くことに障害はない。 「にしても、今日も込んでるな」 「だよなぁ。幾ら味がいいからって、これじゃさすがにうんざりもするぜ」 とぶっきらぼうに言い放つのは、オールバックに眼鏡がトレードマークの生徒会役員、上原裕也だ。何故か制服の時はいつでも生徒会の腕章をつけている不思議な奴でもある。 「裕也の権力で何とかならないかな?」 と、綾辻快斗がにこやかに恐ろしいことを告げた。 中性的な顔立ちに透き通るような肌と、快斗は女子から非常に人気が高い。 だがそれも全て断っているようで、そこには何かのっぴきならぬ事情があるらしい。その事情というのは、知る所ではないが。 「アホ。俺はただの役員だっつーの。それに民主主義の世の中でそんなこと仕出かそうとしてみろ。俺は即座に停学だよ」 「そっかぁ。それは残念だ。退学じゃないんだね」 「お前は何を望んでんだよ……。あ、そいや光那。お前今日の放課後って用事あるか?」 「ん? 何かあるの?」 辺りの声が騒がしくなり、光那は少し声を強めた。 それに合わせてか、裕也も声を強めた。 「いやよ、こいつがな」 言って、快斗を指す。 「羨ましいことに、あの我が高のアイドルこと桜木明日香さんに遊びに誘われたらしいんだよ。三人で行くから、そっちも三人でどう? って」 「へぇ、凄いじゃないか綾辻」 光那が驚きを表す。 いやいや、と快斗がかぶりを振った。 「そんなことはないよ。たまたま暇だったからだって」 「暇だって声をかける相手は選ぶだろ!」 裕也が嫉妬の念を浮かべて声を荒げる。 「みっともない」と、光那と快斗が同時に言った。 「けっ。どーせ俺はモテねえよ」 ふんと鼻息を荒げる。 そうこうしている内に、意外と早く順番はやってきた。 「おばちゃん、俺ルー多目ね!」 「はいよ」 カレーを頼んだらしい裕也が、おばちゃんに注文をつけている。 見た目にも大盛りのカレーを受け取った裕也が「先行ってるぞ」と言い、列を離れる。 次の快斗はというと、何も注文は告げなかった。しかし、それが普通の光景であるのだろうとも光那は思った。 「中華丼です」 「はいよ」 おばちゃんが手軽な返事だけを返している。 それを傍目に、光那も目の前のおばちゃんへと食券を渡した。 「ミートソーススパゲティ。ソースは多目で」 「はいよ」 ふと気付いたことではあるが、どのおばちゃんも返事は同じようだった。 テーブルに席を移し三者三様で黙々と昼食を口に運ぶ。 全員が食べ終わった頃に、ナプキンで口を拭いていた裕也が口を開いた。 「で? どうよ光那さっきの話は。行くだろ?」 「さっきの話? ……あぁ」 言われて光那は思い出す。 ぽん、と漫画のように掌に拳を置いて、そして、ごめん、と言った。 「僕、そういうのは余り得意じゃなくてさ。二人だけで行ってきてくれないか」 すると、「えぇー!」と明らか不満げに裕也が仰け反る。 「お前、そんなんじゃいつまで経っても女なんて出来ないぞー! 彼女作らなくて何が青春だよ。俺らに必要なのは潤いだろ潤い。それをお前、自ら干からびさしてどーするよー」 「うん、まぁそれはわかるんだけどね」 はは、と光那が苦笑いを漏らす。 「いいじゃん、いこーぜー!」 裕也が強く懇願する。 と、そこで快斗が口を挟んだ。 「まぁまぁ、断る相手に無理強いをせがむのはよくないよ裕也。……光那、もし次があったら考えてみてよ。ね?」 「あぁ。悪い、本当」 「ううん、大丈夫」 頭を下げた光那に、快斗は笑顔で答えた。 「ぶーぶー」 裕也はまだ不満を口にしている。 ――だが、それも仕方ないことではある。 光那がこのような誘いを断ったのは、もう三回目なのだ。 「はは」 光那は、まだ、苦笑いを浮かべている。 □□□ 帰りのホームルームが終わると、光那はゆったりと立ち上がった。 あの姫の様子では、きっと放課後も来るに違いないだろう。だが、来てもそれはもう無駄足ではある。 もう、道場に顔を出すことはないのだから。 彼女、聖矢姫は聖矢武道を作り出した聖矢清十郎の一人娘である。そして光那は、そこの門下生であった。 ――そう、こないだまでは。 「……帰ろう」 姫には少し悪い気もするが、それはもう決めたことだった。 光那は教室のドアをそろりと開け、廊下に姫がいないかを確かめる。 いない。 どこかほっとした安堵の気持ちを覚え、光那は他の生徒同様、波の流れのままに下駄箱へと歩いていった。 「……」 例えるなら、栄枯盛衰だ。 にしては、枯れるのがやけに早すぎるが。 幾ばくもたたぬ内、校門を抜けた瞬間に光那は姫に呼び止められていた。 いや、正確には待ち伏せされていた、と表現する方が正しい。 彼女は、校門傍にある創設以来の石柱に背を預け立っていたのだから。 光那はその姿を見て、思わず一歩後ずさる。 姫がそれを見てじろりと一瞥をくれる。 「遅いぞ馬鹿者。何をしていた」 声には少なからず怒気が含まれている。 光那は頬を掻きながら、 「あ、うん。まぁちょっとね」 と、罰が悪そうに言った。 瞬間、二人の間を沈黙が伸びていく。 通り過ぎる生徒が時折何をしてるんだろうという顔で二人を見比べている。 姫が、やがて息をついて声を漏らした。 「まぁいい。行くぞ」 「行くぞ、ってどこに?」 「決まっているだろ。道場だ」 言って、姫は一人スタスタと歩き出す。 光那は黙って動かずにいたが、ついてこないと知るや姫が「早くこい」と叫んだ。 「はぁ」 仕方なく、光那は後ろについて歩き出した。 河原沿いの道は風が強く、遠慮がない。 それはまるで世界に遮断物がなくなってしまったことを連想させるようだ。 空を見れば雲は速く、薄く朱に染まりつつある大気は静かに侵食し始めている。 ポケットに入れた手は温い。なのに風に晒される顔だけは冷めていて。 踏みしめる砂利の音は確かな鼓動となって、光那と姫の命を循環させていた。 「……」 「……」 二人で校門を後にして五分ばかり経った頃。 互いの間に、未だ言葉はない。 前を歩く姫は小さいのに凛とした威厳があって、風に踊る長い髪も強く凛々しく見える。 対照的に、後ろを歩く光那はどこかか細い。 遠くに見える鉄橋の上を電車が去った時、やれと姫が小さく呟いた。 「何でここ一ヶ月、稽古をサボったんだ」 「……」 やっぱりか、と聞こえないように光那は溜息を漏らす。かぶりを振ると、 「あのさ、姫。やっぱり僕、そういうのには向いてないみたいだ」 と、言った。 姫は「そういうの?」と言った。 「うん」 光那は頷く。 「武道はさ、僕には無理だったんだ。進んで人を傷つけるなんて、向いてないんだよ」 「……それは違うが。では今までは何だったのだ」 二人の距離に、違いはない。 ただ五月の中を、二人歩いていく。 「きっと、考えずにいられたからだ。命ってものを」 「命?」 「あぁ。姫は知ってるだろ? 僕の母さん、いなくなったこと」 「……あぁ。だがあれは」 「行方不明だから、まだ生死までは、って? ううん」 光那が緩やかに否定の意を示す。 「いなくなって、もう半年だ。半年も帰ってこなきゃ、いなくなったのと同じだと思う」 「……」 「こんな言い方は冷たいのかもしれない。でも、僕は誰よりも悲しいと思ってるよ。姫のお父さんとか、仕事先の人達とか、近所の人達よりも」 「それはそうだろう。お前は、たった一人の息子なんだから」 姫の声に、強さが入り混じる。 「だからね」 ふと空を見て、光那は言った。 「もう、誰も失いたくないんだ。失うことになるかもしれない力なら要らないから。だから、稽古にも行かなかった」 空は広かった。 ただ、それしか思えないくらいに、空は広かったのだ。 「……お前は勘違いをしている」 震える声が、聞こえる。 「お前は、勘違いをしている」 「かも、しれないね」 「かも、じゃない。そうだ!」 強く言い切る言葉。 光那が空から視線を戻すと、すぐ前に姫の姿があった。 「失うことになるかもしれない、力? ――ふざけるな! 武道を、力を、人を傷つける為の道具と勘違いするんじゃない!」 「姫」 「武道は、自分を、そして大切な人を守る為の力だ! そんなこともわからないで、お前は今までうちで習っていたのか? 違うだろう。お前は、誰よりも守ることの大切さを知っていた男じゃないか!」 「……」 「何とか言え! 我道光那!」 姫が勢いよく襟首を掴んだ。そのまま、ぐいと光那の顔を手繰り寄せる。 しかし、光那の表情に変化はない。 どこか達観したかのように澄んだ光那の瞳。 どこか悲観したかのように怒った、姫の瞳。 二人の視線は交差しているのに、そこに疎通は生まれていない。 やがて、光那がそっと姫の手を解いた。 力は入っていないのに、姫も抵抗することなくその手に従った。 「……」 光那は何も言わない。 一人、未だ自分を見る少女の横をすり抜けて歩いていく。 再びポケットに手を入れ、視線は朱に染まる空に移した。一縷の鳥が、翼をはためかせている。 ふと背後から、か細い声が聞こえた。 「だから、お前はまだ一人でいるのか?」 「……」 ざあ、と風が抜ける。一枚の緑葉が風に舞い、飛ばされていく。 光那は立ち止まらない。 そのまま歩を進め、次第に姫から距離が遠ざかっていく。 姫が振り返り、厳しい、だけど悲しい目を光那にくれた。 「クラスメイトも、友達も遠ざけて。一人で生きていこうと思っているのか」 「……あぁ」 「わたしもか!」 「……」 「わたしのことも、遠ざけるつもりなのか! 光那!」 「……――あぁ」 「――っ!」 言葉は、もう生まれなかった。 光那は、振り返ることもなかった。 姫はただ呆然と立ち尽くしている。 しかし光那は、そのまま歩を進めていく。 それもまた、違う意味で失っているのだということにも気付かないままに。 □□□ 夜の街は冷たくて、でもどこかその冷たさの中に一筋の温もりが見える。 行き交う人の群れは誰も干渉しないのに、干渉しあって夜の世界は成り立っている。 矛盾した世界は矛盾にも気付かず、今日も蠢く。それはまるで、自分のよう。 だから、我道光那はそんな夜の街を徘徊するのが好きだった。 溶け込んでしまうような、むしろ、溶け込ませてくれるようなこの薄靄の気持ちを、全て垂れ流しにすることが出来るから。 五月の夜は肌寒い。 長袖のシャツに、パーカーを一枚はおってから光那は玄関へ向かう。 駅前から少し離れた所にある、鉄骨造り八階建てマンションの六階。 そこに、光那の部屋はある。 親が両方ともいなくなってから親戚に与えられた、そう、これはさながら鳥篭だ。 行方不明で死亡扱いではない為、両親の遺産は転がり込まない。だが、行方は不明。 ならばいつか死亡扱いになった時、面倒を見た御礼として遺産を少しでも貰えるように子供を見ておく、という計画なのか。 自分はまだ未成年。成人するまでは、後三年もある。 それがどんなに長い道程であるかは、およそ想像もつかないこと。 だが、結局の所、身体がどんなに育とうとも、自分はまだ子供なのだ。否が応でも、痛感させられる。 「くそっ」 定まらぬ苛立ちに矛先は見えない。 靴紐を結び、鍵もかけず部屋を後にした。 外は思っていたよりも肌寒かった。 つい先日、久方ぶりの五月雨が降ったからだろうか。 光那はパーカーの前を閉めると、小剣通しのように繋がっているポケットに手を入れて歩き出した。 ほう、と息を吐くがさすがに白気はない。 だが、冷えている。 身体を温めんと気持ち早足で、光那は繁華街の方へと歩きだす。 ――空は、蒼い。 煌びやかな照明にがなりたてる呼び込み。 頭に鉢巻を巻いている人、看板を持って暇そうに突っ立ってる人、何やら仲間内で盛り上がっている人々。 時計を見れば、時刻は十一時を過ぎた辺りだった。 彼らにとっては、これからがさらに働き時なのだろう。 光那は年季の入った居酒屋の横で、缶ジュースを片手にその光景を眺めていた。 炭酸の刺激がいやに思考をクリアにしてくれて、いつもの視界が幾分か広まったように思える。 これは視力の問題ではない。感覚の問題だ。 一点を眺めた時に生まれる刺すような度合いはない。その一点を、今は全方位から包んでいるのである。 喉元を通り過ぎる炭酸の痛みを覚える度、光那はそんなことをふと考えていた。 と、その時横にある居酒屋の窓からひょいと何かが差し出された。 見ると、タレの匂いが香ばしい一本の焼き鳥である。 「よう坊や。今日も人間観察かい?」 続いて、坊主頭のおやじが現れる。 ふっと笑みをこぼして、光那はそれを受け取った。 「まぁね。これ、ありがと」 言って、光那は串にかぶりつく。 素直に美味い、と思った。 「なぁに気にすんな。余りもんだ」 うはは、とおやじが豪快に笑った。 光那は、この人の奔放な気質がどことなく気に入っていた。 この居酒屋のおやじ(名前は知らない)との付き合いは、かれこれ二ヶ月ほどになる。当初は光那がふとここで缶ジュースを飲んでいた所に話しかけてきただけなのだが、光那が「人を見ている」と正直に言ったら何故か感心されてしまい、それ以来焼き鳥一本を肴に話し相手になっているのであった。 「今日は流行ってるの?」 「おうよ。おかげさまでな」 「流行ってるのに、余りものが出ていいのかな」 「おっ、痛いとこ突くじゃねえか坊や。いいんだよ、そのタネは最後の一本だからな。余りと一緒だよ」 うはは、と白い歯を見せる。 「そういや坊や、昨日この辺りで起きた暴力事件、知ってるか?」 「え? いや、知らない。何それ?」 突如飛び出した平穏らしからぬ言葉に、光那は思わず興味を惹かれた。 暴力事件。なら、ヤクザ絡みか、それとも痴情の縺れか。まぁ、何にせよ聞けばわかることだ。余計な詮索は無用というものだろう。光那は黙って話の続きを待った。 おやじは淵に太い腕を乗せながら、視線をどこともなく語りだす。 口には一本の煙草。燻る紫煙は、ただ静かに空へと昇っていく。 「俺も常連さん伝で聞いた話なんだがな。昨日の夜、時間は確か十時ごろだったか。向こうに見える廃墟あるだろ? ほれ、あの辺りの」 おやじの指が指す方角は俗に“廃墟”と呼ばれる繁華街の路地裏にある暗部だ。 そこはちょうど大通りに面するビル郡の裏手でもあり、つまりはビルとビルに挟まれた裏道という訳である。 人気もなく昼でも薄暗い為、ホームレスでも寄り付かない。湿気がたまりやすい上、ネズミの溜まり場でもある。 そこで、その暴力事件は起きたという。 「まぁ、妙にきな臭い事件でな。どうやら、一人の女の子を男達がよってたかって襲ったらしい」 「え!? ……じゃあ、暴行目的、で?」 「いーや、それが違うらしい。暴行っちゃ暴行なんだが。まぁ、その辺は正直完璧にはわからねえんだけどよ。……おい、ちょっと耳寄せろ」 「?」 手招きするおやじに、光那は怪訝な顔を浮かべながらもそっと顔を近づける。 おやじは数度辺りに目配せすると、「誰が聞いてるかわかんねえからな」と言った。 「ここを聞かれたくねえのは、その男達が男達だからだ」 「と、言うと?」 「ふん。つまり、――黒服さんってことだよ」 「え――!?」 こく、とおやじは頷いた。そして「もういいぞ」と言い、一度煙草を深く吸い込んだ。 光那は顔を離しながらも、驚きを隠せないでいる。 「ってことは、……そっちの人?」 右手で手刀を作り、左手の小指を撫でた。 おやじがそれを見て、肩をすくめた。 「多分な。まぁ、十中八九そうだろうが。この辺りで黒服なんてのは、中々見れるもんじゃねえしよ」 「けど、何でそんな人達が? その女の子って、そんなにヤバいことしたのかな」 「そこまではさすがにわからねえよ。まぁけど、そうなんだろうな。じゃなきゃ、狙われる筈がないからな」 煙草の灰が、音もなく地面に落ちる。 まだほんの少し燻っているそれを、光那はそっと踏み消した。 「そっか。じゃあ、その女の子とかもう、今頃は酷い怪我で」 思わず惨状を思い浮かべてしまい、光那は顔をしかめた。膨れ、痣になり、所々がぱっくりと切れ―― だが。 おやじは、その言葉に首を横に振った。 「そりゃ違う。酷い怪我をしたのは、男達の方だ」 「えっ――!?」 先ほどよりも大きな衝撃が光那を襲う。 酷い怪我をしたのは、女の子じゃなくて男達の方。 ということは、それをやったのは女の子の方だ。 大勢の場慣れした男達に酷い怪我を負わせたのは、たった一人の女の子――? 「うそ、でしょ?」 そう、思わず言葉を漏らしてしまっていた。だがそれも仕方ないことではある。 もしもその事柄を聞いたとしたら、百人が百人、いや、千人が千人共に口を揃えてそう唱えるに違いない。 それほどまでに、考えうる事態において在りえないことなのだ。 だがそれは事実のようだ。 光那は知れず、自らの内に興奮の感覚を覚え始める。 「じゃあ、暴力事件ってのは」 「そうだよ。女の子が男達に暴力を働いた事件、ってことだ」 「その女の子は?」 「さぁな。警察が躍起になって追っているが、今の所目立った手掛かりはないらしい」 「へぇ。……会って、みたいな」 その言葉は、自然と口をついて出た言葉だった。 「ぶっ!」 おやじが驚きを露にする。 「何言ってんだ坊や。会ったらお前も酷い目に合わされちまうぞ?」 「うん、そうかもしれないんだけど」 「それでも会ってみたいってのかよ」 「うん」 躊躇もなく頷く。さらに光那は、 「会ってみたいというより、会いたい、かな」 「はあぁ……」 呆れた、というようにおやじがかぶりを振った。 「こりゃ驚きだね。坊やがそこらの学生と違うってのは気付いてたけど、まさかここまで物好きだったとはよ」 「僕、変わってるの?」 「あぁん!? 気付いてないのかよ坊や! ……ったく、こりゃ本物だぜ」 うはは、とおやじが光那の頭を荒々しく撫でた。 そして、ちらりと腕の時計を見た。 「おっと、もうこんな時間か。いけね、明日の仕込み始めなきゃな」 おやじが背筋を伸ばし、悲鳴のような怒号のようなうめき声を上げる。 こんな所までおやじにならなくても、と光那は微かに口を歪ませた。 若干残っていた缶ジュースを一気に飲み干す。炭酸はすっかりと抜け、ただの甘い飲み物と成り果てている。 光那は壁際を離れおやじに振り向くと、「じゃあまた」と言って踵を返した。 背中にかかるおやじの「おう!」という声が、やけに、心地よかった。 その後、噂を求めて繁華街をぶらついてみたが、件の少女らしき人物は現れなかった。 だが、それも当然とは言える。 自らが警察に追われているというのに、わざわざその現場付近へと近寄ることはないだろうからだ。 変わりに、といってはなんだが、随分な数の警官に身分証明書の提示を求められたり「帰りなさい」と注意されたりはした。 このまま街中をぶらついていたかったが、このような状況では仕方がない。 コンビニでポテチとパックの紅茶を買うと、光那は帰路に着いた。 ――と、その途中。光那は、綾辻快斗と上原裕也達五人とばったり遭遇した。 「あれえ、光那じゃん! 何してんのお前、こんな所で!」 目をランと輝かせた裕也が声も高らかに叫ぶ。 それを見て、快斗が「こら裕也、声デカいよ」と嗜めていた。 (あぁ、そっか。確か今日――) 光那はつい数時間前のやりとりを思い出す。確か、女子と遊びに行くとか何とか。 ということは、ここにいる三人の女子達がそうなのだろう。 皆、制服ではなく私服だ。まぁ、制服ではこんな時間まで居られないのは皆わかっているのだろう。遊び慣れしているのかもしれない。 裕也は何が楽しいのかいやに笑いながら女子の一人と戯れている。快斗はそれを変わらず嗜めている。 と、その時輪から外れていた女子の一人に話しかけられた。 一目にわかるくらい、その外見は優れている。 「我道君、だよね? わたしのこと、わかる?」 「え? えぇっとー……」 そう、確か。 「桜木さん、だっけ?」 すると、その女の子はパンと手を叩いた。 「そう! よかったー、覚えててくれたんだ」 言って、嬉しそうに顔を綻ばせている。 その仕草は光那ですら素直に可愛いと思うほどの無邪気さがあった。 「あの、わたしね――」 言いかけて。 「ちょっと行くよ明日香ー!」 言いかけて、いつの間にか歩き出していた友達に名を呼ばれた。 「また明日な光那ー!」「またね!」裕也と快斗も光那に向かって叫んでいる。 「あ……そ、その。……また今度、ゆっくりお話しようね!」 言って、彼女、――桜木明日香は、踵を返しその輪の内へ走っていく。 輪に戻り再び友達と談笑し始めた明日香。光那はしばし、彼女の姿を眺める。 そして、光那も再び自宅への帰路を歩み始めた。 近く訪れる二人の再開が、互いの理想とは違うことも知らずに。 □□□ 翌日、朝のホームルームで担任が不意に告げた。 「えー、実は今日から転入生が来ています」 静かだった教室が一点、打って変わって波乱のような喧騒に変わる。 皆が皆、口々に期待を押し寄せているのは誰の目にも明らかだった。 光那はしかし、黙って事の成り行きを見守っている。 別に誰が来ても関係はない。そう、光那は思っていた。 ――その姿を、見るまでは。 「入ってきて」 担任の声に、教室前方の扉がゆっくりと開く。 入ってきた姿を見て、クラス中がどよめいた。 「おお……」 「うわ、綺麗ー」 それは、例えるなら濡れ烏。 梳ったばかりのように絹めいた漆黒の髪が後ろで一つにまとめられ、一歩毎にたなびいている。 凛とした姿勢は育ちのよさを表していて、隠しきれない覇気に満ち溢れている。 覗く肌は白く、精巧な人形の出来を思い出させるようだ。 魔性。 そう例えられても可笑しくないほどの美貌が、そこにはあった。 そして。 「……」 光那は、彼女の姿を見た時、心の内にある何かが壊れるのを感じていた。 それが何かはわからない。何が壊れたのかもわからない。 だが、異変があったことだけは、確実だった。 (こい、つ――?) 直感の淵。光那は、何か直感でしか知りえないものを感じ取る。 それが表すものとは一体何なのか。 直感に訴えかけてくる彼女のソレとは、一体何であるのか。 「初めまして、皆さん」 教卓の横に立った彼女は、意志の強そうな瞳で微笑みながら、やがて自らの名を告げた。 「雨音、雫です」 〜to be continued〜RE:BIRTH EPISODE2『AROUSAL』 |